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グレート・ギャツビー(2008 月組)

ギャツビー:瀬奈じゅん デイジー城咲あい ニック:遼河はるひ
 
スカステの好企画「I Love 宝塚」で、紅ゆずるさんが「好き!いい!好きよ!!!」と
絶叫していたのが、このギャツビーを演じる瀬奈じゅんの背中芝居。
わかる。超わかるわ紅子ちゃん。
ほんと、背中があんなにかっこいいなんて信じられない。黙って佇む背中があんなにも多くを語るなんて。
 
ギャツビーはいわゆるいい男ではない。
胡散臭い商売をしている得体の知れない成金だ。取り巻き連中も彼のお金に群がっているだけ。上流階級は内心彼を見下している。
彼が生涯をかけて追い求めたデイジーは浅薄で弱く、男を真剣に愛することのできない女だ。彼女にとって結婚とは「裕福な男に贅沢で安楽な生活をさせてもらうこと」
愛のない夫でも、自分を庇護してくれる限り妻の座を捨てる気はさらさらない。
ギャツビーとの恋を楽しんだとしても、彼のためにどんな小さな犠牲も払うつもりはない。いずれほとぼりが冷めたらすっかり忘れてしまえるんだろう。
 
、、、と、フィッツジェラルドの原作はあまりにも辛くいたたまれない話だが、
宝塚版はやはり宝塚らしいアレンジがなされている。
原作だと貧乏人との結婚なんてとんでもない、あり得ないわというデイジー
宝塚版では貧しさを承知で彼についていこうとさえするし、ギャツビーがデイジーを忘れなかったように、デイジーもまた結婚後もギャツビーを思い続け、ラストではそっとギャツビーの葬儀に花を手向けるだけの悔恨の情を見せる。(原作や映画版ではそんなことしやしないよ、この女)
あまりにも酷薄な、というか馬鹿な女では、観客が物語に入りづらいし、幕がしまった後気持ち良く帰れないもんね。
 
若干甘口になっているとはいえ、この宝塚版アレンジはうまいと思う。
瀬奈さんのギャツビーがどこまでも品良く美しくかっこいいのも、宝塚ならでは。
(二枚目スターのレッドフォードやディカプリオでさえ胡散臭く下品に演じているのに)
ギャツビーの父の独白を背景に、少年の日のギャツビーと彼の魂が交錯するシーンは涙なくして見られない。
また、マートルとジョージ夫婦の実在感にも感動した(専科の磯野千尋さん。すごい!)
 
ギャツビーは本当にデイジーを愛していたんだろうか?
彼は彼の信念に殉じただけなのではないか。
デイジーは彼の青春であり、意地でも獲得したい成功のイメージだったのではないか。
彼にとってはデイジーがどんな人間であれ、それ自体はもはやどうでもよかった。
でもデイジーに愛などなく、彼が人生をかけるに値しない女であることを認めてしまったら、彼の努力はすべて無意味になってしまう。
ギャツビー本人が「君は幻」と歌うとおり、デイジーは永遠の夢だった。
彼の信念を守るために必要な幻想だったのだ。
 
小型のギャツビーみたいな男は実は沢山いる。
ある種の男性は自分の信念に固執するあまり、現実を無視して幻想に生きる。
妻を全く見ておらず知ろうともしない「愛妻家」など、世に溢れているではないか。
そして小型のデイジーもまた沢山いる。
だからこの物語は胸に迫るし、私たちはギャツビーのために泣く。
 
ところで。
ニックを演じる遼河はるひさん。顔立ちも声も蘭寿とむ様に似ていてちょっとドキドキする。
二人とも82期。遼河さんもとても素晴らしくいい男役さんなのだが、ちょっとカラーの似た、しかも化け物級のスター性を持つ同期が存在したってのは、遼河さんにとっては複雑な状況だったのかもしれない・・・
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背中で語る男の人生に号泣